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コラム・事例

その家族信託はもう死んでいる!?

石井 満 代表社員
司法書士(京都第1278号)・簡易訴訟代理等関係業務認定(第112066号)・民事信託士・行政書士

1.「お前はもう死んでいる」!

私の世代は少年漫画全盛の時代で、特に一世を風靡するいくつかの人気連載漫画がありました。なかでも「北斗の拳」は、当時の男子で知らない人はいない、時代を代表するマンガだったといえるでしょう。

ケンシロウがバトルの仕上げにつぶやくセリフ「お前はもう死んでいる。」は、平和主義で「死」のシーンが嫌いな私にとっても、非常に痛快な言葉だったと思います(ちなみにこのセリフ、一字一句この通りのものは原作では一回しか使われなかったそうです)。

敗れた相手が、自分が既に死んでいることに気づかないうちに葬り去られているという状況での言葉で、その圧倒的な強さと鮮やかさが非常に話題となり、少年どうしの中で大流行したものです。

2.「その信託はもう死んでいる」?

昨今、家族信託(民亊信託)への関心は高まる一方です。ここ数年、試行錯誤し悩みながら、民亊信託普及活動のようなものにつとめてきた私にとっても感慨深く、嬉しく思います。そうは感じながらも、拝見する信託契約書の中には、どうしても首を傾けたくなるようなものが散見されるようにもなってきました。そこでつぶやいてしまうのが、冒頭の言葉、「もう死んでいる」です。

典型例を挙げれば、信託契約書の「信託の目的」として

「受益者の生活・介護等に必要な資金を給付して、受益者の幸福な生活及び福祉を確保すること」

と規定されているにもかかわらず、受益権が法人に譲渡されているようなケース。(そもそも信託導入時から法人への受益権譲渡を予定されていたふしさえあります。)

法人に受益権が譲渡されたということは、言うまでもなく受益者は法人になっているということです。受益権の譲渡以降は、この信託の受託者は、受益者である「法人」の、「幸福な生活及び福祉を確保」しなければなりません。法人が幸せに生活する・・・。「これは、管理責任を負う受託者にとって難題だなあ」とも思えてしまうところです。

それどころか、信託法第163条で、信託は「信託の目的を達成することができなくなったとき」に終了する、とされています。

「この信託・・・もう死んでいるのでは・・・」
と首をかしげたくなる局面かもしれません。

3.信託が信託であるために

信託の必要性、社会的ニーズへの合致に本気で取り組んできた私にとって、「信託を世間にいかに広めていくか」は非常に重要なテーマでした。同じように、様々な専門家、団体が、「まずは皆さんに信託を知って頂く」という広報活動を行ってきていると思います。

この流れのもとでは、信託のすばらしさ、柔軟さ、契約自由、何でもできるみたいなアピールはそれなりに意味のあるものでしたし、嘘ではないと思います。全国各地でセミナーや勉強会が開催され、また最近は驚くほど増えてきた書籍にも、様々なことが提案されています。かく言う私も、「信託はいいですよ」と延べ何千人にもなる聴講者の方々に唱えてきました。

ただし、これには重要な大前提があります。「信託の本質・趣旨を外さない限り」いいですよ、という意味です。信託の本質、信託の趣旨とは、具体的には「信託の目的」に表現されます。そしてその信託目的とは、必ず「受益者のために」なっていないといけません。

さらに、信託のキーマンである受託者が管理処分を行うときの判断基準は、すべて「信託目的」に沿うかどうか、にあります。信託目的を外れた管理や処分行為をしてしまうと、ただちに受託者の管理責任を追及される可能性があることにもなってしまいます。

「信託は何でもできる?」

いえいえ、「目的がない信託」「目的が形骸化した信託」「目的を見失った信託」はそもそも、もはや信託ではないはずなのです。

4.信託の目的とは

こんなことを言うと、お叱りや反論も頂戴することがあります。信託目的は、従来から歴史的典型例として「信託財産の管理運用処分をすることでしょう!管理運用処分目的からは全然外れてないじゃない!」

確かに、従来からの信託銀行等が行ってきている商事信託の信託目録などを拝見すると、信託の目的は「財産の管理運用処分をすること」が一般的です。従来からの書籍の記載例もそのようなものでした。

でもこれらは、信託銀行等が受託者となる、いわゆる商事信託が前提となっているものです。金融機関の信託業務の兼営等に関する法律(兼営法)または信託業法によって許可を受けて、厳格に金融庁の管理指導下にある信託銀行や信託会社が受託者になる場合の信託の目的なのです。

商事信託の場合、信託銀行や信託会社が行う、受託者としての行為そのものが業務であり、その業務の目的内容は金融庁の管理指導を受け、信託業務自体、明確に目的化されています。投資信託などの金融商品そのものも、金銭運用して配当することが目的であり、誰の目からも明らかです。その意味で、商事信託では「管理運用処分すること」で目的として十分といえるでしょう。兼営法や信託業法によって、目的の明確性が担保されているからです。

一方で、家族や親族が受託者になる家族信託(民亊信託)の場合、そもそも財産を託するのはなぜなのか。これは重要なテーマになるはずです。意味なく財産の名義を移転することは、形式的にどのような形をとろうとも(たとえ信託の名を語ろうとも)、贈与のたぐい(か、または名義移転自体が無効、不存在もしくは詐害行為のようなもの)です。

それが贈与でなく信託といえるためには、「名義移転が受益者のためになるから」であり、かつ「そこに強い信認関係があるから」でなくてはなりません。そしてその「強い信認関係」に基づいて「受益者ためにこのようにしてほしい」ということが表現されたのが「信託目的」であるはずです。

さらに言うならば、この「信託目的」を当事者、特に信託受託者が認識して管理を行っていなければ、信託そのものが土台から怪しい状態になり得ます。特に親子等の家族間の信託の場合、とりわけ強く意識しないと客観性を失う危険があります。この「客観性を失う」とは、「実際のところ、それ贈与でしょ」「実際のところ信託じゃないでしょ」と、後から利害関係者(例えば相続人)や租税公課庁から言われないか、ということです。

5.判断基準

信託が成立するかどうかは、「信託契約書」を交わしたかどうかでなくその信託としての実質を有しているかどうかによる趣旨の判例があります(平成14 年1月17日最高裁、公共工事の請負者が保証事業会社の保証の下に地方公共団体から支払をうけた前払金(預金)について、地方公共団体と請負者との間でこれを信託財産とする信託契約が成立したことを認める初めての判断)。信託の有無は「信託契約という形式」でなく、「信託の実質」があるかどうかによる、ということです。

では、信託としての実質の判断をするにあたって、信託目的をどうするか、「管理処分すること」なのか、「受益者の幸福追求や円満承継」でいいのか、「受益者の生活資金の交付」なのか、もっと明確なものなのか・・・。実務家としては実は非常に悩ましいところです。

残念ながら、このあたりの明確な判断基準は、これからの紛争発生(信託の有無を争う等)による各裁判事例に委ねられていくことになるのかもしれません。

6.目指したい民亊信託契約

だからこそ、今、実務に携わる私たちとしては、誰の目から見ても民亊信託の趣旨にかなった、筋の通った契約書の作成が求められると考えています。

民亊信託の趣旨とは、

  1. 適正な信託の目的が存在し
  2. 受託者が常にその目的を意識して管理していける(管理基準として理解していける)内容で
  3. それら(信託目的及び受託者の管理行為)が、常に受益者のためとの実質を伴っている

ということではないでしょうか。

いち実務家の私見に過ぎませんが、理想的な信託契約書は

①他人がその信託契約書を見た際、受託者に、受益者のために、託した財産をこのようにしてほしい、という「委託者の想いが見えてくる(資産承継の筋書きが見えてくる)」もの

であり、かつ、

②受託者が、委託者の①の意を組んで、受託者の判断で、「柔軟に財産管理活用できる」もの

だと思っています。

①と②は相反するようで、実は密接に連携します。
①のように明確に表現されているからこそ、②のように受託者は、自信を持って柔軟に、託された財産の管理活用をすることができるのです。

7.最後に

信託の目的をどうするか・・・!

意外と悩ましい問題です。民亊信託の実務家として、後になって、
「ひでぶ!」「あべし!」と言われないような家族信託(民亊信託)を心がけたいと思っています。